親父の車遍歴:番外19(パイクカー編【前編】:日産ブースの片隅からパイクカーは誕生しました。)
Contents
1.はじめに
本編(その9)と(番外6)から(番外16)の、計11回(番外15除く)、バブルの時代に輝いていたクルマたちをご紹介しました。そしてこの時代には、これらのクルマたちとは違う路線で、人々をわくわくさせてくれるクルマたちがいました。
そのクルマたちはパイクカー(尖った車)と呼ばれ、日産が「Be-1」を皮切りに、まるでお家芸のように5台の魅力的なパイクカーを世に送り出しました。パイクカーは、特に当時流行った日本初、世界初といった最先端の機能、性能とは無縁の現行車ベースのクルマでしたが、見ているだけとても元気な気持ちになりました。
ということで、【前編】【後編】の2回に渡り、そのパイクカーたちをご紹介したいと思います。今回はその【前編】で、パイクカーの誕生から絶頂期に向かう頃のお話しとなります。
なお本ブログは、私のつたない昔の記憶と、定期購読誌「国産名車コレクション」、「名車文化研究所」や自動車メーカーなどのサイト、を参考にして書いていることをご承知おきください。
2.始まりは日産ブースの片隅から
パイクカーは、1985 年に開催された第26回東京モーターショー(以下東京MS)に参考出展された「Be-1」から始まりました。このときの日産ブースでは、以前ご紹介した、「インフィニティQ45」のベースとなった「CUE-X」が華々しくセンターを務め、「Be-1」はブースの隅っこで、本当に参考出展といった様子見的な展示がされていました。
ただ、東京MS開催期間中は、「Be-1」の周りには黒山の人だかりができ、これほどの人気を博するとは、おそらく日産は予想していなかったと思います。私もこの東京MSを見に行きましたが、正直センターの「CUE-X」より、多くの人々が「Be-1」を取り囲んでいたと記憶しています。「Be-1」の展示エリアは結構狭かったので、変なたとえですが、まるで上野動物園でパンダを見るときのように、多くの人たちが列をなしていました。
当初日産は、「Be-1」を市販することは考えていなかったようですが、あまりにも評判が良かったので、その1年ちょっと後の、1987年1月に「初代マーチ(K10):以下マーチ」をベースに市販されました。東京MSのときに出展されていたモデルと比べると、ホイールキャップがメッキから黒に、ディメンジョンが少し縦長になっていたような気がしましたが、インテリアも含めてほぼ忠実に再現されていました。
「Be-1」は、このような類のクルマの定番である台数限定(1万台)で販売が開始されましたが、あまりにも注文が殺到したので、急遽抽選で販売するという事態となりました。どの時代にも、金儲けに長けた方々がいるようで、発売後すぐにプレミアがついた「Be-1」を、中古車市場でちらほら見かけました。
ベースが「マーチ」とはいえ、エクステリアはもちろん、インテリアの細部までオリジナルでデザインされており、且つ少量生産ということで、コストはそれなりにかかっていたと思われます。たださすが太っ腹の日産さん、その価格は大衆車クラス並みに抑えられていました。そしてその後市販されるパイクカーすべてにおいて、日産さんのご厚意は変わりませんでした。
絶好調な販売に気を良くした日産は、東京青山に「Be-1」ショップなるアンテナショップを開設し、「Be-1」にちなんだ様々なグッズを販売していました。バレンタインデーの時期には、「Be-1」の形をしたチョコレートを販売(おそらくライセンス販売)したりして、クルマ好きな人、そうでもない人を含め、世の中の多くの人たちを楽しませてくれました。
3.二匹目のドジョウは?
3-1)「Be-1」とはまったく違うデザイン
「Be-1」で味を占めた日産は、1987年に開催された第27回東京MSで、2台のパイクカー「パオ(PAO)」と「エスカルゴ(S-cargo)」を参考出展しました。
「パオ」は「Be-1」と同じコンパクトクラスのクルマで、なかなかインパクトのある見た目でしたが、「Be-1」のような誰もが、かわいい、とか、おしゃれ、というようなジャンルのデザインではありませんでした。
当時巷では「二匹目のドジョウ」はどれだけいるかな?などと陰口が聞かれたりもしました。
ただ第2次世界大戦中に活躍したドイツの軍用車「キューベルワーゲン」を、現代風にアレンジしたような冒険心を抱かせるようなデザインで、ちょうどそのころ大ヒットしていた冒険映画「インディ・ジョーンズ」なども追い風となり、「Be-1」と同様に人々の心をしっかりと掴みました。
3-2)今度は予約注文で販売
そして「パオ」は、1989年1月に市販されましたが、日産は「Be-1」のときの反省を踏まえ、3ヶ月間予約を受けた後に、その予約数をすべてを生産・納車するという販売方法がとられました。そして総生産台数は、「Be-1」のほぼ3倍の3万台ほどに上りました。
ベース車両は「Be-1」と同じく「マーチ」でしたが、やはりエクステリア、インテリアともに、東京MS出展モデルが、ほぼ忠実に再現されていました。特にオプションで設定されていた「パオ」専用のレトロ仕様の2DINオーディオの仕上がりは抜群で、相当サプライヤーさん泣かせだったのではないかと察します。
アンテナショップも、「Be-1」のときと同様に開設されました。場所は、当時トレンドになっていた(トレンディという言葉が流行っていました)ウォーターフロントと呼ばれていた東京芝浦(かの有名なディスコ「ジュリアナ東京」もありました)で、「パオ」のシートを使ったカフェなど、その場所に恥じないとてもおしゃれなお店だったようです。
時代はバブルの真っただ中ということで、ワンレン、ボディコン、ミニスカのドレスアップした若者たちで、さぞかし賑わっていたことと思います。
4.仕事は楽しくおしゃれに!
「エスカルゴ」は前述の通り、「パオ」と一緒に1987年開催の第27回東京MSで参考出展されました。そして1989年1月に「パオ」と同時に市販されました。
「Be-1」と「パオ」はコンパクトクラスの乗用車でしたが、「エスカルゴ」は「マーチ」より一クラス上の「パルサー」をベースにした商用車でした。その最大の特徴は、いままでの商用車のデザインとは一線を画すもので、サイドビューは車名にもなっている「エスカルゴ(かたつむり)」のような大胆なデザインでした。
インテリアデザインも現代につながる革新的なもので、当時まだ珍しかったセンターメーターや、センターコンソール上部に配されたAT(オートマティック トランスミッション)のセレクトレバーなど、時代を先取りしたおしゃれでありながら、高い実用性も兼ね備えたデザインでした。
販売は「Be-1」「パオ」とは異なり、2年ほどの販売期間中に受注した分はすべて生産するという方法がとられました。ちなみに販売台数は1万台ほどで、「Be-1」と同じぐらいでした。
「エスカルゴ」は、特にお花屋さんの前で見かけることが多く、そのおしゃれなデザインと、背の高い荷室が、ちょうどお花屋さんのニーズに合致していたのかもしれません。
この「エスカルゴ」のデザインと実用性は、今でも十分通用するもので、未だに中古車市場で高い人気なんだそうです。軽EVの「サクラ」のプラットフォームを使い、軽規格でこの「エスカルゴ」を復刻すれば、結構人気が出そうな気がしますが、日産さん如何ですか?
5.各車の主要諸元
下表に、「Be-1」「パオ」「エスカルゴ」の主要諸元を示します。3車とも現行車ベースということで、性能面では尖がったところはまったくありません。ハイパワーエンジンや最先端の装備を搭載していなくても、クルマが人々の生活を豊かにしてくれることを、パイクカーたちは教えてくれました。
6.終わりに
以上が、パイクカーのご紹介の【前編】となります。【後編】では、バブルの絶頂期に世の中を輝かせてくれた宝石のようなクルマや、パイクカーでありながら販売競争の矢面に立たされ、ちょっとかわいそうだったクルマなどをご紹介したいと思います。
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