親父の車遍歴:その4(マークⅡ編【前編】:親父が北に東に西に爆走する。)
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1.はじめに
前回(その3)では、親父が「トヨタ 三代目コロナ(RT40):以下コロナRT40」を買って、初めて高速道路に乗ったときのお話をしました。このころは時代の流れとともに車の上級化が進み、好評を博した「コロナRT40」の上級車「トヨタ 初代コロナ マークⅡ(最初のころは、頭にコロナが付いていました):以下マークⅡ」が発売されました。
今回(その4)では、親父がこの「マークⅡ」に買い替えて、北に東に西に爆走していたころのお話の【前編】となります。時代は私が小学校の高学年だった昭和40年代の半ばになります。
なお本ブログは、私の子供のころの記憶と、定期購読誌「国産名車コレクション」、「名車文化研究所」や自動車メーカーなどのサイト、を参考にして書いていることをご承知おきください。
2.国産車のモデルラインアップが拡大、そして縮小
昭和40年ごろまでは、国産乗用車のモデルラインアップは、軽自動車(以下軽)、小型自動車(以下小型車)の下のクラス(ブルーバード、コロナ など)、小型車の上のクラス(セドリック、クラウン など、一部普通自動車もあり)の大きく3つに分かれていました。
その後市場の多様化するニーズに合わせ、軽と小型車の下のクラスとの間に、大衆車という位置付けで「日産 サニー」が1966年4月に、「トヨタ カローラ」が1966年11月に、小型車の下のクラスと上のクラスの間に、ハイオーナーカーという位置付けで、「日産 ローレル」が1968年4月に、そして今回ご紹介する「マークⅡ」が1968年9月に、発売されました。
そして時代が進むにつれて、それらの間に更にモデルが追加され、SUV(Sports Utility Vehicle)やミニバンなどの新たなカテゴリーのモデルも投入されることで、現在(正確には少し前)のとても充実したモデルラインアップに至りました。
ただ高度成長の波に乗って一気に拡大してきた国内自動車市場ですが、最近では少子高齢化、若者の車離れなどの影響で年々縮小傾向にあり、国内の各自動車メーカーはグローバル市場に触手を伸ばし、国内市場のモデルラインアップや、販売チャンネルなどは縮小して合理化を図っています。
日産の「セドリック」「ブルーバード」はすでに消滅、トヨタの「クラウン」は絶滅危惧種、「カローラ」はラインアップの多様化によりなんとか名前は残っている、といった現状は、当時では全く考えられなかったと思います。
3.まずは北に爆走
3-1)海水浴は日本海で
当時は(番外1)でご紹介した四日市のように大気汚染が進んでおり、実家のある岐阜から行ける太平洋側の海水浴場は、まるでわかめスープの中で泳いでいるような感じでした。親父たちはそれを嫌い、日本海側の美浜原発の近くの海水浴場に、夏休みになると会社の仲間たちと車でつるんで、私たちをよく連れていってくれました。
3-2)国道8号は大渋滞
実家のある岐阜から日本海側の海水浴場までは、当時は北陸自動車道など影も形もなかったので、琵琶湖をかすめながら国道8号でひたすら北上しました。敦賀に入る手前に踏切があり、それを先頭に琵琶湖近くまで慢性的に渋滞していました。
真夏の炎天下ということもあり、路肩には多くのオーバーヒートした車が、ボンネットを開けて止まっていました。親父の「マークⅡ」はまだ買ったばかりの新車だったので、そのような難は逃れましたが、あることをきっかけに受難することになってしまいました。
3-3)カークーラーは助手席の足元に
今ではカーエアコンがほぼ標準装備品となっていますが、当時の車は一部を除きオプション設定すらされていませんでした。当時の車にはフロントドアの前方に三角窓が付いており、真夏にはそこから風を取り入れつつも、各ドアのウインドウは全開で、さらにハチマキを頭に巻いて車を運転するというのが一般的でした。
そんな中で、カークーラー(エアコンではありません)なる最先端装備が、市販の後付け品として売られるようになりました。新しもの好きの親父はすぐに飛びつき、さっそく「マークⅡ」にも取り付けました。その最先端装備は後付け品なので、ジャストフィットというわけにはいかず、助手席の足元に取り付けられました。
その結果、助手席の足元から車内全体に冷たい風を送ることになるので、助手席に座っている方は局所的に冷風を受けるといった拷問にさらされることになりました。
3-4)エンスト受難
助手席に座るおふくろのことはさておき、その夏も親父は会社の仲間とつるんでいつもの日本海側の海水浴場に向かいました。仲間の中では一番新しい車で、おまけにカークーラーまで付いているということで、出発前の待ち合わせ場所にウインドウをすべて閉め切って向かった親父の顔は、さぞかし得意満面だったと思います。
が、残念ながら出発してしばらくすると、親父の「マークⅡ」が突然エンストしました。夏の風物詩のオーバーヒートではなく、どうやらエンジンがエアコンのコンプレッサーの負荷に耐え切れずにエンストするようでした。純正品ではなく市販の後付け品だったので、いろいろな車種との適合は十分確認されていなかったために、このようなことが起こったようです。
結局この夏の海水浴は、いままで通りウインドウ全開で往復することになり、おふくろの膝小僧も凍傷にならずに済みました。
4.次は東に爆走
4-1)東名高速道路が開通
東名高速道路(以下東名)は、今から50年以上も前の1969年5月26日に全線開通しました。小牧IC-東京IC間を結ぶ全長347kmの高速道路ですが、1968年4月に一部区間から開通し、最後は最大の難所である御殿場IC-大井松田IC間が開通してすべての工事を終えました。
1969年のゴールデンウィーク(以下GW、このころすでにありました)に親父が、東名が開通したので行けるところまで行こう、と言い出しました。そして宿の予約もなしに、まったくの無計画で一宮ICから東名に入り(正確には一宮ICは名神高速道路(以下名神)です)、ひたすら東に向かいました。
岡崎ICまでは1年前に開通していましたが、その先はつい最近開通したようでまっさら(真っ黒)な道がひたすら続きました。GWでも今ほどは車は多くなく、親父は快調に「マークⅡ」を東に向けて飛ばしました。天気はとてもよく、富士山もバッチリ拝むことができました。そんな中で、前回(その3)でご紹介したように親父はすでに100km/h越えを経験し、車も新しくなっているので、余裕で運転を楽しんでいました。
4-2)御殿場で爆走は終わる
そしてついに御殿場ICで行き止まりになりました。この先は、このあと約1ヶ月後に開通しました。もしこの先も開通していたら、親父は東京まで行ってしまいそうな勢いでしたが、まずはここで東名とお別れすることになりました。
今のようにネットが普及している時代ではないので、親父の勝手な勘(思い込み)だけでまずは箱根に向かうことにしました。そして親父は芦ノ湖畔の観光案内所でどこの宿も満室だと聞き、初めて今はGWだと我に返ったようでした。親子4人で車中泊かと覚悟しかけましたが、観光案内所の方が最寄りの宿に電話をかけまくり、奇跡的にキャンセルが出た宿を見つけてくれました。本当に有難うございました。
4-3)なかなかいい宿にめぐり合う
観光案内所で見つけてもらった宿に早速向かうと、芦ノ湖畔に位置する鉄筋5階建てぐらい(?)の比較的新しい宿でした。部屋も芦ノ湖に面しており、広さは覚えていませんが親子4人には十分な広さだったと思います。
親父もおふくろもこの宿が結構気に入ったらしく、その1~2年後にもう一度お伺いしました。親父はずいぶん前に亡くなりましたが、おふくろは今でも元気です。少し前におふくろと兄貴と3人でこの宿にお伺いしましたが、おふくろは本当に懐かしがってくれました。
ちなみにこの宿は箱根駅伝のときに、某有名大学の宿舎にもなっているようでした。
4-4)味噌無しおでん
翌日は、御殿場ICから東名に入るのではなく、また無計画に親父が、富士五胡を周って帰ろう、と言い出しました。私たちが運転するわけではないし、新しいところに連れて行ってもらえるので、拒む理由はまったくないのですが、カーナビなど無い時代に親父の頭の中には、何時ごろ家に到着できるのかという計算ができでいたかは定かではありません。
この日も富士山が美しい姿で私たちを見守ってくれる中を、山中湖、河口湖とめぐり、西湖、精進湖はスキップして本栖湖に到着しました。ちょうどお昼どきだったので、本栖湖畔の茶屋に立ち寄り、おでんを注文しました。私の故郷岐阜では、おでんは串にさしてあり、味噌をつけて食べるのが一般的でしたが、出てきたおでんはまったくの別物でした。
出汁がしみ込んだこんにゃくや大根やちくわなどの具がひとつの皿に盛りつけられており、食べるとそれはそれでとても美味しかったことを覚えています。そしてそれが、私の初めての関東風(当時は関東煮といっていました)のおでんとの出会いになりました。
その後、富士山をぐるりと周って富士ICから東名に入り帰路につきました。今思えば、何時ごろ岐阜を出発し、何時ごろ岐阜に到着したのかは覚えていませんが、いくら若くて、道が新しくて、車が少なかったとしても、1泊2日でよくこの行程を走り切ったものだと、このブログを書いていてあらためて親父の体力に感心しました。
5.おわりに
話は途中ですが、今回(その4)でのお話はここまでとなります。次回(その5)は今回の【後編】となり、親父が「大阪万国博覧会」を目指して西に爆走したときのお話や、「マークⅡ」のライバル車「ローレル」などをご紹介する予定です。
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