親父の車遍歴:その5(マークⅡ編【後編】:親父が北に東に西に爆走する。)
Contents
1.はじめに
前回(その4)では、親父が「トヨタ 初代コロナ マークⅡ(最初のころは、頭にコロナが付いていました):以下マークⅡ」に買い替えて、北に東に爆走したときのお話をしました。
今回(その5)は「マークⅡ」編の【後編】となり、親父が「大阪万国博覧会」を目指して西に爆走したときのお話や、「マークⅡ」のライバル車「日産 初代ローレル:以下ローレル」などをご紹介します。時代は私が小学校の高学年だった昭和40年代の半ばになります。
なお本ブログは、私の子供のころの記憶と、定期購読誌「国産名車コレクション」、「名車文化研究所」や自動車メーカーなどのサイト、を参考にして書いていることをご承知おきください。
2.そして西に爆走
2-1)大盛況の「大阪万国博覧会」
2025年に大阪で再び万国博覧会が開催されようとしていますが、今から50年以上前の1970年に大阪の千里丘陵で、「人類の進歩と調和」というテーマで「大阪万国博覧会:以下万博」が開催されました。
日本国民の約半分が来場したほどの大盛況ぶりで、学校でも「万博」の話題が尽きませんでした。そんな中で、私が少年野球団に入っており、土日は練習や試合でつぶれていたせいで、わが家(岐阜の実家)では私が少年野球団を引退(?)する夏休みの終わりまでは「万博」に行くことができませんでした。
2-2)いよいよ「万博」に(1回目)
夏休みも終わり閉幕まであと1週間余りというタイミングで、「万博」に滑り込み2週連続で親父に連れていってもらいました。まずは名神高速道路(以下名神)に大垣ICから入ると、いきなり渋滞していました。最初は2車線の道路に2列の普通(?)の渋滞でしたが、当時運転マナーというのはどこにも存在せず、まもなくすると路肩を含めた3列の渋滞に、そして最後は4列といったすさましい渋滞でした。
「万博」会場のある吹田ICまでほぼ全線渋滞の中、ようやく指定の駐車場に入ることができました。「万博」では混乱を避けるために、都道府県が何組かにグルーピングされ、駐車場を指定されていました。会場についたときはもう夕方近くになっていましたが、限られた時間の中で必死にパビリオンをまわりました。が、目ぼしいパビリオンは長蛇の列でとても入ることができず、地味な小国の共同パビリオン程度しか見ることができませんでした。
2-3)いよいよ「万博」に(2回目)
前週の反省を踏まえ2回目は、まだ暗い中「万博」会場に向かいました。すると名神はガラガラで、なんと開場前につくことができました。親子4人で門の前で待ち構え、開場と同時にお目当ての「日立館」に突っ走りました。このパビリオンでは「シミュレーショントラベル:飛行機が操縦できるアトラクション」があり大人気でした。
割り当てられた駐車場からこのパビリオンまでは距離が離れていたので、パビリオンまで親子4人で全力疾走しましたが、到着したときにはすでに3時間以上の待ちでした。落ち込んでばかりはいられないと、次はアポロ11号が持ち帰ってきた「月の石」で大人気の「アメリカ館」に向かいましたが、こちらはすでに4時間待ちでした。
このまま人気のパビリオンばかりを狙っていると入場難民になりかねないと気持ちを切り替え、人気はともかくメジャーなパビリオンということで「ソ連館(当時はロシアではなくまだソビエト連邦でした)」に向かうと、30分程度の待ちで入ることができました。展示内容はよく覚えていませんが、謎の味がする「クワス」という黒いドリンクが売っており、みなさんの一口飲んだあとのアクション(少しお下品になってしまうのでご想像におまかせします)は、今でも覚えています。
その後、
・「三菱未来館」で、前評判の高かった煙をスクリーン代わりにして映像を映し、まるでサメが飛び出してくるようだというアトラクション、をかなり期待して見ましたが、とても残念な結果だったとか、
・「サンヨー館」の人間洗濯機の中のビキニのお姉さんにみとれてしまったりとか、
・「日本館」はテーマ館として気合が入っていた割には、人気(ひとけ)が少なかったとか、
・蚊取り線香を入れる子豚のようにかわいい「ガス館」にいやされたりとか、
・「フランス館」の複数の丸いパビリオンの付けられた無数の青白い照明がチカチカ切り替わりながら点滅し、さすがお洒落な「おフランス」と感じたりとか、
閉場時間ギリギリまで、親子4人でいろいろなパビリオンをまわりました。
そして、帰りは「マークⅡ」のリアシートで、兄貴と重なり合いながら爆睡して帰りました。行けなかったパビリオンも多々ありましたが、初めて見る銀色の電車(東横線でおなじみのアルミ外装の電車)や、まばゆいばかりに光り輝くパビリオンたち、などなど、本当に多くの未来を見せてもらいました。2025年の「万博」も多くの子供たちに、私が1970年に体験した以上の未来を見せてくれることを期待しています。
3.「マークⅡ」と「ローレル」
3-1)「マークⅡ」と「ローレル」の主要諸元
「マークⅡ」と「ローレル」、その比較として、「マークⅡ」の前に親父がのっていた「トヨタ 三代目コロナ(RT40):以下コロナ」の主要諸元を下表に示します。専門的なスペックは、あえてはしょってあることをご承知おきください。
車のサイズとエンジンの排気量は、「マークⅡ」は「コロナ」の上級車種ということで、全高以外は少しづつ大きくなっています。「ローレル」とはライバル関係ということでほぼ同じになっていますが、サスペンション(今回は特徴的なのであえて追加しました)には大きな違いがありました。
3-2)「ローレル」のサスペンション
「ローレル」は欧州車(BMW)の走行性能を目標に開発されたようで、特に足回りは四輪独立懸架になっていました。当時の乗用車は、前輪は多くが独立懸架でしたが、後輪は「マークⅡ」を含めてリジット(固定式)がほとんどでした。
四輪独立懸架は、4つの車輪がすべて独立して路面からの衝撃を吸収するので、乗り心地やコーナーリング性能を大幅に向上させるといったメリットがありました。この「ローレル」のフロント:ストラット、リア:セミトレーリングアームのサスペンションメカニズムは、その後の日産の高性能車の定番となり、我が愛車「ケンメリ」を含め、その後30年近く採用され続けました。
3-3)「八の字」のタイヤ
欧州車並みの高性能なサスペンションが採用されている「ローレル」でしたが、後席に人が乗りリアが沈み込んだときに、独立懸架がゆえにタイヤが「八の字」になり、下図の通り後ろから見るととても弱々しく映りました。一方「マークⅡ」はリジットがゆえに、しっかりと踏ん張っているように映りました。
性能とは裏腹に、リジットの方が見栄えがよく、当時「ローレル」と同様のサスペンションを採用していた「ブルーバード(510型):以下ブルーバード」とともに日産の足回りは貧弱だといった噂が立ったことは、とても皮肉なことだったと思います。
まさに「技術の日産」「販売のトヨタ」の構図が、浮き彫りになった時期だったのかなと思います。
3-4)勝負の行方は
車の性能はさておき、販売実績では「マークⅡ」は「ローレル」を大きく引き離しました。「ローレル」は前述の通り卓越した走行性能に加え、弟分の「ブルーバード」譲りのスーパーソニックラインのクリーンなデザインで、とても完成度が高い車でしたが、残念ながら販売実績には結びつかなかったようです。
4.レザートップが大流行(おまけ)
最近の車はフローティングルーフデザインを取り入れ、ボディの色とルーフトップの色を違う色にするのが流行っていますが、昔も似たようなことが流行っていました。当時のアメ車の影響で、Cピラーからルーフにかけてレザー風のビニールを貼り、レザートップと銘打って皆が誇らしげに走っていました。
流行に流されやすい親父も、業者に頼んで「マークⅡ」をレザートップ仕様に変身させました。今まで白一色だったボディが、白黒のツートンカラーになることでイメージはずいぶん変わり、親父も満足そうでした。
5.おわりに
以上が、親父が「マークⅡ」で西に爆走したときのお話や、そのライバル車の「ローレル」のご紹介になります。この「マークⅡ」は親父の車にしては結構長寿で、次期型「マークⅡ」が発売されるときまで乗っていました。
私は中学校に入ると部活動にのめり込み、そのころから親子4人でドライブする機会は徐々に減っていきました。多分今回ご紹介した「マークⅡ」は、親父が一番長い距離を走り、私たち家族をいろいろなところに連れて行ってくれた車だったと思います。
次回は、前述の次期型「マークⅡ」や、いよいよ我が愛車「ケンメリ」のお話をしたいと思います。
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