親父の車遍歴:その7(5代目スカイライン(GC210)ジャパン編:ようやく狼に少しもどる。)
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1.はじめに
前回(その6)では、親父が迷い抜いて購入した「2代目マークⅡ」をご紹介しました。その後、別のブログ(ケンメリが私の元へ(その3))でもご紹介しましたが、のちに我が愛車となる「4代目スカイライン(GC110):以下ケンメリ」を経て、親父は「5代目スカイライン(GC210):以下ジャパン」を購入しました。
今回(その7)では、厳しい排ガス規制の中で羊に成り下がってしまった「ジャパン」が、ふたたび狼に少しもどったころのお話をしたいと思います。時代は昭和50年代の半ばで、私が学生時代を謳歌していたころとなります。
なお本ブログは、私の昔の記憶と、定期購読誌「国産名車コレクション」、「名車文化研究所」や自動車メーカーなどのサイト、を参考にして書いていることをご承知おきください。
2.羊の皮をかぶった狼
(番外3)でご紹介した「3代目スカイライン(GC10):以下ハコスカ」の初代GT-Rは、4ドアセダンボディに強力なS20エンジンをエンジンを搭載し「羊の皮をかぶった狼」と呼ばれていました。その走りの良さはGTグレートにも受け継がれており、「羊の皮をかぶった狼」は、当時スカイラインの代名詞となっていました。
それが48年、50年、51年、53年と年々厳しくなる排ガス規制の中で、GT-Rは早々に姿を消し、我が愛車ケンメリも含めたGTグレードも完全に牙を抜かれ、普通の羊になってしまいました。
3.本当に羊だった「ジャパン」
3-1)「ジャパン」に変わっても販売は絶好調
1977年8月に「ケンメリ」から「ジャパン」にモデルチェンジしたのちも、「ケンメリ」から続くスカイライン人気は衰えるどころかますます勢いがつき、街中はあっという間に「ジャパン」であふれ返りました。
別のブログ(ケンメリが私の元へ(その3))でもご紹介しましたが、スカイライン史上最も売れたのは「ケンメリ」で、なんと累計約67万台を売り抜きました。ただ「ケンメリ」は、厳しい排ガス規制への適合の影響もあり約5年間(当時の一般的なモデルチェンジサイクルは4年)販売されていました。
それに対し「ジャパン」の販売台数は累計約54万台になっていますが、「ジャパン」はこの販売台数を4年で達成しているので、その人気は「ケンメリ」と同等とだったといえます。
(販売台数、販売期間の引用:Wikipedia)
3-2)みごとなマーケティング
前回(その6)でもお話ししましたが、当時の日産のマーケティングは、その武骨なイメージからは想像もつかないほど秀逸で、「ケンメリ」から続く、下記のようなとても魅力的な特別仕様車や、関連グッズが展開されていました。
【特別仕様車の例】
(1)ブラック塗装の「精悍ブラッキー」
(2)オーバーヘッドコンソールにテクニクスのカーコンポが埋め込まれた「サウンドシャワー」 など
【関連グッズの例】
(1)Mr.&Ms.の「オリジナルTシャツ」
(2)運気を呼び込む「ピラミッドパワー」
(3)同じく運気を呼び込む「ミラーパワー」 など
3-3)名ばかりのGT達
そんな販売が絶好調な「ジャパン」でしたが、厳しい排ガス規制に牙を抜かれた状態であることには変わりありませんでした。「ジャパン」は、我が愛車「ケンメリ」の51年規制より、さらに厳しい53年規制を課せられているので、親父の「ジャパン」は、ただでさえ鈍足な我が愛車「ケンメリ」よりさらに鈍足で、アクセルを踏んでも踏んでもなかなか加速しませんでした。
そんな中で、トヨタが「2代目セリカ:以下セリカ」のマイナーチェンジで、「名ばかりのGT達は道をあける」という強烈なキャッチコピーを打ち出してきました。当時のトヨタは厳しい排ガス規制の中でも、馬力やトルクを落としつつもかろうじてDOHCエンジンを残しており、それを盾に強烈に「ジャパン」に攻め込んできました。
「ジャパン」が6気筒SOHCのL20エンジン、「セリカ」が4気筒DOHCの18R-Gエンジン、両者とも2000㏄で、カタログ馬力やトルクの数値はほぼ同じでした。ただ腐ってもDOHCということで、排ガス規制前ほどの勢いはないものの、走りにおいては「セリカ」にとって、超鈍足になった「ジャパン」はもはや敵ではありませんでした。
ただいくら走りが良くても、1代目から2代目にモデルチェンジされたときに、誰もがあっと驚いた「セリカ」のボディデザインは、最後まで販売の足を引っ張ったようでした。
4.反撃に転じる
1979年10月に、日本で初めてとなるターボエンジンが、高級車の「セドリック、グロリア(430):以下430」に搭載されました。ターボ車というと高出力エンジンというイメージですが、当時日産は高効率エンジンとして、あえて高級車の「430」から搭載し、前例にこだわるお役所の認可を取ったようです。
突破口を開いたあとは、「ブルーバード(910):以下910」、そしていよいよ「ジャパン」にも、1980年4月にターボエンジン(L20ET)が搭載されました。
私は「ジャパン」にターボエンジンが搭載されると、すぐに販売店に向かいました。「ケンメリ」に乗っていたので、買い替えの上客として扱われたようで、快く試乗させてもらいました。
期待に胸をときめかせてアクセルを踏むと、おやっと思えるほどおとなしい(もったりした)出足でした。そして3000回転が過ぎるころに「ヒューン」というタービンの音が聞こえ始め、突然背中をシートに押し付けられ、あっという間にタコメーターの針はレッドゾーンに飛び込んでいきました。
そのときの興奮は今でも覚えているとともに、ようやく厳しい排ガス規制の長いトンネルの出口まで来たことを実感しました。
そして、このターボエンジンの搭載を機に、長きにわたり「セリカ」にこ馬鹿にされ続けてきた「ジャパン」は、いよいよ反撃に転じました。特にフロントバンパーに付けられた逆文字の「TURBO」のシールは、前の車のルームミラーには正しい文字で映るといった演出は、反撃の象徴でした。
5.主要諸元
下表に、親父の乗っていた「ジャパン」、「ジャパン」ターボ、そして参考として我が愛車「ケンメリ」の主要諸元を示します。「ジャパン」のボディサイズは、「ケンメリ」に対しバンパーが少し出っ張った分、全長が長くなっている以外はほぼ同じでした。室内の広さも、ほとんど変わらなかったと記憶しています。
エンジンのスペックもほぼ同じでしたが、より厳しい排ガス規制への対応のために、「ケンメリ」の酸化触媒から、「ジャパン」はより浄化性能の高い三元触媒に変更されていました。
6.おわりに
以上が、「ジャパン」のご紹介になります。ターボエンジンの登場で、スカイライン本来の走りがようやく戻ってきました。そして、その走りは「6代目スカイライン(R30):以下R30」では更に進化しました。
次回はその進化した「R30」をご紹介する予定です。走りは進化しましたが、時代の流れがナンパな方向に向かってしまい、スカイラインも方向を修正せざるおえなかったころのお話をしたいと思います。
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