親父の車遍歴:その9(6代目ローレル(C33)編:バブルの時代は、どの日産車もとても魅力的でした。)
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1.はじめに
前々回(その7)、前回(その8)でご紹介しましたが、親父は「4代目スカイライン(GC110):以下ケンメリ」、「5代目スカイライン(GC210):以下ジャパン」「6代目スカイライン(R30):以下R30」と3代スカイラインを乗り継ぎました。ただその次の「7代目スカイライン(R31):以下R31」は、あまりしっくりこなかったようでした。
いままでならフルモデルチェンジのたびに車を乗り換えていた親父も、「R30」をすぐには手放さず、気に入った車が登場するのを少し待っているようでした。スカイラインと同クラス(ちょっとだけ上)の「5代目ローレル(C32):以下C32)」も、アメリカンスタイルというと聞こえはいいですが、ようするに極端な角々絶壁のケバケバしいスタイルで、「R31」と同様に親父のお眼鏡にはかなわなかったようでした。
その後、日産は1988年1月に投入した「初代シーマ(FPY31)」を皮切りに、次から次へと魅力ある車を世の中に送り込みました。その中には前型のケバケバしさから脱却し、シックな大人の雰囲気に包まれた「6代目ローレル(C33):以下C33」も含まれており、ようやく親父が買い替えたいと思う車が登場してきたようでした。
ということで今回(その9)では、その「C33」と、当時の日産の魅力的な車たちをご紹介したいと思います。時代は、世の中がバブル景気に沸きに沸いていた1980年代の後半になります。
なお本ブログは、私のつたない昔の記憶と、定期購読誌「国産名車コレクション」、「名車文化研究所」や自動車メーカーなどのサイト、を参考にして書いていることをご承知おきください。
2.バブルの時代と魅力的な日産車たち
2-1)バブルの時代
前述の通り当時はバブル景気の真っただ中で、世の中には、薄カーキ色のタックの入ったチノパンに黒いポロシャツ、そして黒いサングラスで身をまとい、ブランド物のセカンドバックを脇に抱えて闊歩している若者であふれ返っていました。
さらには、バブル景気で羽振りがよくなった「にわかセレブ」たちは、ショルダーフォンなるスマホのご先祖様にあたる移動体電話を肩から下げ(3㎏ほどあったようです)、電車の中でかっこつけて通話したりしていました。ただ当時の移動体電話は第一世代(1G)の大ゾーン方式で、通話エリアが極めて狭く、かっこつけて通話しているわりには、ごめんちょっと切れそうだから、というイクスキューズがしょっちゅう聞こえてきました。
移動体電話は、もともとは自動車電話から普及が広がり、後ろの席の重役さんがふんぞり返って使うためのものでした。当時自動車電話で通話することは成功者の証であり、特に「ベンツ」のトランクリッドに取り付けられた移動体電話用のアンテナ「ブーメランアンテナ」は羨望の的でした。
前回(その8)で少し触れましたが、当時は「ハイソカー」なるものが一世を風靡しており、そのトランクリッドに、「なんちゃってブーメランアンテナ(ようするにアンテナではなくただの飾りです)」を付けて走っている方々が多く見受けられました。
2-2)魅力的な日産車たち
前述のバブルの時代に発売された主な日産車と、その簡単な解説を下記に示します。どの車もターゲットカスタマーを明確に絞った魅力的な車ばかりでした。
(1)初代シーマ(FPY31)1988年1月発売:3ナンバー専用車で「シーマ現象」を引き起こす。街中でお尻を下げて255馬力で急加速する「シーマ」をよく見かけました。
(2)5代目シルビア(S13)1988年5月発売:ホンダ「プレリュード」から「デートカー」の称号を奪回。彼女欲しさに購入する若者たちが日産販売店に殺到しました。
(3)初代セフィーロ(CA31)1988年9月発売:異次元の4ドアセダン、「くうねるあそぶ」「お元気ですか」が話題になる。それにしてもぶっ飛んだセダンでした。
(4)6代目ローレル(C33)1989年1月発売:シックな大人のシルエットにつつまれた、最後の4ドアピラーレスハードトップ。
(5)8代目スカイライン(R32)1989年5月発売、GT-R 8月発売:ついに圧倒的なパフォーマンスで「GT-R」が復活。試乗すると以前ご紹介した「GTターボ」以上の感動と快感が走りました。
(6)4代目フェアレディZ(Z32)1989年7月発売:完璧なスーパースポーツカー。すべてにおいて本当に文句のつけようがありませんでした。
(7)初代プリメーラ(P10)1990年2月発売:日欧同時投入の卓越した足回りのグローバルカー。特に2リッターは胃下垂になりそうなほどにサスペンションが硬かったです。
(発売時期の引用:Wikipedia)
上記以外の車種たちも、この時代のすべての日産車が輝いていました。
3.「C33」のご紹介
3-1)最後のピラーレス4ドアハードトップ
前述の通り「C33」は、低めのルーフトップを、Aピラー(フロントガラスの横の柱)と、Cピラー(リアガラスの横の柱)でのみ支えている、4ドアピラーレスハードトップでした。この4ドアピラーレスハードトップは、日産がトヨタの「クラウン」に対抗するために、「3代目セドリック(230型)」から長きにわたり採用してきました。
2ドアタイプのピラーレスハードトップが一般的な中で、4ドアとなると後席のドアを支えるためのBピラー(前席と後席の間の柱)が必要となります。ただそれをルーフとつなぐことなく剛性を保つのは、なかなか大変だったようです。さすが「技術の日産」!
ちなみに当時のライバルのトヨタは、主なモデルではBピラーをルーフとつないだ4ドアピラードハードトップを採用していましたが、初代の「カリーナED」と「コロナEXiV」だけは4ドアピラーレスハードトップでした。
ただBピラーとルーフとつないだ方が剛性が高くなるのは自明であり、側突時の安全性を向上させるために、この「C33」が4ドアピラーレスハードトップを採用する最後の車となりました。
ちなみに親父の「C33」はちょっとあたりが悪かったらしく、ピラーレスがゆえに出るドア周りの異音を何度も調整してもらっていましたが、最後まで消えることはありませんでした。
3-2)昔の実家に最後に収まった「C33」
以前(その6)でご紹介しましたが、私の実家は増改築を繰り返して、駐車場や私の勉強(?)部屋を追加してきました。そして親父も定年を迎え、先のことを考えて兄貴夫婦と同居することになりました。
そのためには、今の家では手狭過ぎるということで、2世帯で住むことを想定した家に建て直すことになりました。そして「C33」は、最後に昔の実家に収まった車となりました。最初に収まった(その2)でご紹介した「コンテッサ1300」の全長と全幅は(4150mm×1530mm)、「C33」は(4690mm×1695mm)ということで無理やり増築した昔の実家の駐車場も、最後は小型乗用車枠ぎりぎりでつくられた「C33」まで許容し、その役目を終えました。
4.各車の主要諸元
「C33」の主要諸元を下表に示します。参考までに「コンテッサ1300」の主要諸元も掲載しておきます。「C33」の主要諸元のモデルは「DOHCターボ」のハイパワーモデルですが、親父の車は「SOHC」125馬力のおとなしいモデルでした。ただこの頃になると厳しい排ガス規制への対応が落ち着いてきており、親父が乗る分には十分すぎるほどの性能を有していました。
5.おわりに
以上が「C33」のご紹介になります。次回はいよいよ親父の最後の車「8代目セドリック(Y32)」のご紹介になります。番外編は別にして、これでいよいよ親父の車遍歴の本編は最終回になりますので、よろしくお願いします。
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