親父の車遍歴:番外22(懐かしの昭和の高級車編【前編】:「クラウン」史上一番カッコいい「クラウン」です。)
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1.はじめに
先日(番外15)でもご紹介しましたが、4年ぶりに開催された東京モーターショー(以下東京MS)あらため、ジャパンモビリティショー(以下JMS)に行ってきました。
自動車メーカー各社は、今回からJMSにあらためたということで、今までの東京MSをさらに進化させようと、空飛ぶクルマやプライべートジェットを展示したり、大画面で未来のモビリティの姿をコンセプトカーを交えて演出したり、様々な趣向を凝らしたなかなか興味深いショーでした。
そんな中で、もちろんトヨタブースは、自工会会長でもある豊田章男会長(JMS開催当時)の威信をかけた大々的な展示がされていました。私はその中の一般展示エリアで、黒山の人だかりができている1台のクルマがとても気になりました。
そのクルマとは、長年トヨタのフラッグシップカーとしての重責を担い、国内の高級セダン市場を欧州系の高級車に侵食されつつあるなかで、絶滅危惧種といわれようがその役目を全うしようとしている「クラウン」でした。
長年のライバルであった日産の「セドリック」&「グロリア」も、その後継の「フーガ」も、すでに絶滅した今もなお、孤軍奮闘して頑張っている「クラウン」を見ているうちに、自分が子供のころに悠然と走っていた昭和の高級車たちの記憶が蘇ってきました。
本編(その1):キャロル編でもお話ししたように、わが家には私が物心つくころから、軽自動車ながら身分不相応なマイカーがあったので、クルマにはとても興味がありました。
そんな私の記憶の中にしっかりと刻まれている昭和の高級車たちは、トヨタの「2代目クラウン(RS40系)」と、日産の「初代セドリック(30系)」と、プリンス自工(まだ日産とは合併していないころです)の「2代目グロリア(S40系)」の3車です。
時代は1960年代の前半の私が幼稚園(正確には保育園でした)に通っていたころで、東京オリンピックが近づき日本中が活気に満ち溢れていたころになります。
ということで今回から【前編】、【後編】の2回に渡り、、この3車を中心にご紹介したいと思います。今回【前編】では、昭和の高級車たちが活躍した東京オリンピック1964と、トヨタが純国産にこだわり抜いて世に送り出した国産初の高級車「初代クラウン(RS系)」と、私が「クラウン」史上一番カッコいいと思っている「2代目クラウン」をご紹介したいと思います。
なお本ブログは、私のつたない昔の記憶と、定期購読誌「国産名車コレクション」、「名車文化研究所」や自動車メーカーなどのサイト、を参考にして書いていることをご承知おきください。
2.東京オリンピック1964
「2代目クラウン」、「初代セドリック」、「2代目グロリア」が発売されてからしばらく経過し、東京オリンピックも近づき日本中の活気が頂点に達しようとしていたころに、その象徴としてこの3車たちが悠然と街の中を走っていました。
そんな中で、いよいよ1964年10月10日から東京で、アジア初となるオリンピックが開催されました。その際にJOC(日本オリンピック委員会)から、トヨタ、日産、プリンス自工、三菱重工(まだ三菱は三菱重工の自動車部門でした)に声がかかり、聖火リレーの伴走車や大会役員用車両などの提供を依頼されました。
2021年に開催された東京オリンピック2020では、トヨタがオフィシャルスポンサーを務めていたので、関係車両はトヨタ車一色でした。ただ当時は、オリンピックはアマチュア精神に則って行われるものということで、特定の自動車メーカーに絞ることなく、オリンピックでTVに映って世界中に放送されても恥ずかしくない立派なクルマを有する各社に声がかかったものと思われます(それ以外の自動車メーカーの皆さん、すいません)。
そのJOCからの要請に応えるべく、トヨタは「2代目クラウン」、日産は「初代セドリック」、プリンス自工は「2代目グロリア」を提供し(三菱重工は発売まもない「初代デボネア」でした)、聖火リレーの行われた全国各地や、オリンピック会場のいたるところで、この3台(+1台)のクルマを見かけることになりました。とてもいい宣伝になったことと思います。
3.「クラウン」
3-1)「クラウン」の誕生
「初代クラウン」は、1955年1月に発売されました。本編(その2):コンテッサ編でもご紹介したように、当時の国内自動車メーカー各社は、戦時中、戦後の占領下での遅れを取り戻すために、海外の自動車メーカーと技術提携し、ノックダウン生産(部品は輸入して組み立てのみ実施)から始めていました。
そんな中で、トヨタは純国産にこだわり抜き、血のにじむような努力の末に「トヨペットSA」を1947年に発売し、その8年後に本格的な国産高級車「初代クラウン」を誕生させました。
梯子型フレームにフロントはダブルウィッシュボーンの独立懸架、リアはリーフリジットの固定式で、堅牢かつ音振を抑えた当時としては高い水準の足回りを実現していました。モノコックボディが主流になっていく中でも、「クラウン」はこの音振性能に優れるフレーム構造に代々こだわり続け、なんと1995年発売の「9代目クラウン」まで、このフレーム構造(もちろん進化していますが)を継承しました。
私がクルマに興味を持ち始めたころには、この「初代クラウン」は「2代目クラウン」にモデルチェンジされていたので、街中で見かけるとリアガラスの両サイドに柱があり(初期型はフロントガラスの真ん中にもありました)、とても古臭く感じました。
ちなみにこの「初代クラウン」は、前後のドアは観音開きすることが特徴といわれていますが、当時はそれも古臭く感じる要因のひとつでした。
この「初代クラウン」はパトカーでもよく使われており、怪獣映画などによく登場していました。けたたましく昭和のサイレンを鳴らしながら、暴れまくる怪獣をバックに走り回って(逃げ回って)いたことをよく覚えています。
3-2)「クラウン」史上一番カッコいい2代目
「2代目クラウン」は、1962年9月に発売されました。1940年代のアメ車を参考にしたようなクラシカルなエクステリアデザインの先代とは打って変わり、直線基調のとてもクリーンな当時の最先端を行く、世界でも通用するような洗練されたエクステリアデザインに生まれ変わりました。
このデザインも純国産にこだわるトヨタは、海外の著名なデザイナーに頼ることなく、社内デザイナーの力だけで仕上げたようでした。当時走っているクルマの中で、この「2代目クラウン」は突出してカッコよく、私は今でも「クラウン」史上一番カッコいい「クラウン」だと思っています。
「2代目クラウン」は、前述の通り9代目まで継承されたフレーム構造を採用していますが、初代の梯子型からX型に進化させ、より剛性を高めていました。X型のフレーム構造は、あの「トヨタ2000GT」でも採用されていますが、この「2代目クラウン」の方が先だったことになります。
エンジンは、当初は先代の1.9リッター直列4気筒OHVの3R型でしたが、1965年10月に新開発の2.0リッター直列6気筒SOHCのM型エンジンが搭載されました。
このM型エンジンは、前述の「トヨタ2000GT」の2.0リッター直列6気筒DOHCの3M型のベースになったことはよく知られていますが、以前ご紹介した「トヨタ3000GT」というキャッチコピーを引っさげて登場した「(セリカXXから数えて)3代目スープラ」に搭載されていた3.0リッター直列6気筒DOHCツインターボの7M型まで引き継がれ、なんと30年近くの年月を刻みました。
3-3)「クラウン エイト」
世の中には、そんな自分で運転するようなクルマには乗れん、というお偉い方がお見えになるようで、【後編】でご紹介する「セドリック」には、2.0リッターを越える大排気量エンジンを搭載したショーファードリブン向けのグレードが設定されていました。
「2代目クラウン」でも十分高級車でしたが、ライバルに対抗すべく、なんと全長と全幅を拡大し、オールアルミの新開発2.6リッターV型8気筒OHVエンジンを搭載した「クラウン エイト」が、1964年4月に発売されました。このクルマは「2代目クラウン」よりもさらに豪華仕様で、三角窓(昔のクルマには普通に付いていた前席サイドガラス前方の窓です)まで、パワーアシストされていたようです。
そして、この「クラウン エイト」は、1967年9月に発売されたトヨタの誇るVIP専用車「センチュリー」にバトンを渡しました。
4.おわりに
以上が懐かしの昭和の高級車編【前編】で、東京オリンピック1964と「初代クラウン」と「2代目クラウン」のご紹介になります。
次回【後編】では、まだライバル関係にあり、のちに兄弟となった「初代セドリック(30系)」と「2代目グロリア(S40系)」をご紹介する予定です。
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