親父の車遍歴:その2(コンテッサ編:昔は日野も乗用車を作っていました。)
Contents
1.はじめに
前回(その1)では、親父の初めての車「マツダ キャロル(以下キャロル)」と近所の親父の洗車仲間の「マツダ R360クーペ(以下クーペ)」ご紹介しました。「キャロル」は2ドアと4ドアの2台を乗り継ぎ、結構お気に入りのようでした。
当時は、昭和の高度成長期ど真ん中で世の中が急速に豊かになり、おそらく親父の給料も右肩上がりで、そろそろ軽自動車(以下軽)ではなく、小型自動車(以下小型車)が欲しくなってきたみたいでした。
今回(その2)では、親父が軽を卒業し、小型車にランクアップしたときのお話をします。時代は、私が小学校低学年だった昭和40年ごろになります。
なお本ブログは、私の子供のころの記憶と、定期購読誌「国産名車コレクション」、「名車文化研究所」や自動車メーカーなどのサイト、を参考にして書いていることをご承知おきください。
2.なぜか日野の車
2-1)ステップアップは「日野コンテッサ900」で
このころは、前回(その1)でご紹介した「キャロル」や「クーペ」などの個性的な軽が、街中を走り回っていましたが、「日産 初代ブルーバード(310型、210型以前の車名はダットサン)」、「トヨタ 2代目コロナ(PT2型)」などの小型車もぼちぼち見かけるようになり、いわゆる日産とトヨタのB(ブルーバード)C(コロナ)戦争が始まろうとしていました。ちなみに「サニー」と「カローラ」の大衆車での日産とトヨタの戦いは、もう少し先になります。
そんな中で、親父は初の小型車として「日野コンテッサ900(以下コンテッサ900)」を選びました。多分ですが、前回(その1)でお話しした、近所の付き合いのある整備工場の方から勧められたのではと思います。
2-2)日野はルノーと提携
今でこそルノーというと日産が出てきますが、当時は日野がルノーと提携して「日野 ルノー(以下:ルノー)」を作っていました。最初は「ルノー4CV」のノックダウンから始まり、最後には完全国産化を実現したようです。
当時の自動車メーカーは【純国産組】と【海外メーカー提携組】に分かれており、下記のような関係になっていました。【純国産組】の中でも特にトヨタは、戦前から乗用車の国産化にこだわり続け、相当な苦難を乗り越えてきたようです。そして今、世界一の自動車メーカーにまで上り詰めています。
【純国産組】
・トヨタ:創業者 豊田喜一郎氏がけん引
・ホンダ:創業者 本田宗一郎氏がけん引
【海外メーカー提携組】
・日産:英国オースチン社
・三菱:米国カイザー・フレイザー社
・いすゞ:英国ルーツグループ
2-3)「コンテッサ900」は「ルノー」がベース
「コンテッサ900」は、「ルノー」をベースに作られており、RR(リアエンジン、リアドライブ)の駆動方式で、リアドアの後ろに「ルノー」と同様のエンジン冷却用のエアインテークが特徴的でした。
車のデザインは、イタリアのカーデザイナー「ジョバンニ・ミケロッティ」が関わっていたようですが、子供の目には「ルノー」を角ばらせて、3BOXのセダンに仕立て上げたようにしか映りませんでした。
2-4)カッコいい「コンテッサ1300」
「コンテッサ900」がわが家に来てからしばらくして、「日野 コンテッサ1300(以下コンテッサ1300)」が1964年9月に発売されました。この「コンテッサ1300」も「コンテッサ900」と同様に、「ジョバンニ・ミケロッティ」がデザインに関わっていましたが、こちらは明らかに子供の目から見ても、当時の国産車の中では抜きんでてカッコいい車でした。
と思っているうちに、いつもまにやらわが家の「コンテッサ900」は「コンテッサ1300」に変っていました。「コンテッサ900」は地味な濃紺でしたが、「コンテッサ1300」は当時出始めだったメタリック塗装で、淡いブルーのとてもきれいな色でした。
3.わが家の駐車場
3-1)ついに駐車禁止に
ちょうどそのころ、家の前の歩道が駐車禁止になりました。時代の流れから致し方なしというところでした。わが家は町中にあり、いわゆる狭小住宅で駐車場を作る庭などありませんでした。仕方なく家を少し削り、無理やり駐車場を付設しました。
頭からカーブを描いてアプローチしないと止めることができないといった、トリッキーでまるで「香港啓徳国際空港 」に飛行機を着陸させるぐらい駐車が難しい駐車場でした。
ただこの駐車場は、特に先のことを見越して作ったわけではないのに、我が愛車ケンメリを含めその後ますますステップアップする親父の車を、小型車枠すれすれのサイズまで抱擁してくれました。
3-2)後ろからクランク棒で
当時の車はまだ電装系が弱く、寒い朝はスターターではエンジンがかからずに、クランク棒を使ってエンジンをかけるといった光景がよく見られました。
「コンテッサ1300」は頭から駐車場に止めてあるので、もしクランク棒が必要になったらどうするのかと思われる方が、ひょっとしたらお見えになるかもしれません。ただそれは計ったわけではありませんが、「コンテッサ1300」は「ルノー」「コンテッサ900」から続くRRの駆動方式だったので、クランク棒はお尻から差すことになり大丈夫でした。
その後のわが家の車はFR(フロントエンジン、リアドライブ)で、クランク棒は頭から差す必要がありましたが、幸いにしてクランク棒を必要とする車は「コンテッサ1300」が最後となりました。
そして「コンテッサ1300」は日野の最後の乗用車となり、その後日野はトヨタと提携しトラック専門メーカーとなりました。
4.各車の主要諸元
下表に「ルノー」「コンテッサ900」「コンテッサ1300」の主要諸元を下表に示します。専門的なスペックは、あえてはしょってあることをご承知おきください。
小型車枠は当時(1960年以降)から現在に至るまで「全長:4.7m以下、全幅:1.7m以下、高さ2.0m以下、排気量:2,000㏄以下」ですが、各車ともそれを大きく下回るサイズになっており、日産の「セドリック」やトヨタの「クラウン」といった高級車のみが、この枠いっぱいに作られていました。
1989年から自動車税の区分が変わり、税金はエンジン排気量で決まり、その刻みも2,000㏄を越えるといきなり倍額以上になるのではなく500㏄刻みに変更になったので、車のサイズは一気に大きくなりました。
昔の車もディメンジョン(縦・横・高さ)のバランスがとれているので、我が愛車ケンメリも含め遠目には大きいのですが、近くに行くとなんだか小さいといった、映画「トイストーリー」の「バズ」のような現象が起こるようになりました。ケンメリに乗っていて隣に最近の車がくると、たとえ「日産ノート」、「トヨタヤリス」、「ホンダフィット」のようなコンパクトカーでも、とても巨大に映ります。
5.おわりに
以上が親父が小型車にステップアップし、「コンテッサ」を2台乗り継いだときのお話になります。ちょうどこのころ名神高速道路が全線開通し、いよいよ高速時代の幕が開けました。
次回(その3)では、この高速時代に対応した「トヨタ 3代目コロナ」をご紹介する予定です。初めて親父が高速道路に入り、時速100km/h越えを体験することになります。
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