親父の車遍歴:番外24(懐かしの昭和の高級車編【続編】:三菱やいすゞにも高級車がありました。)

2024年2月23日

1.はじめに

 先日(番外22)(番外23)の2回に渡り、懐かしの昭和の高級車として「クラウン」、「セドリック」、「グロリア」の3車をご紹介をしました。その中で、東京オリンピック1964ではこの3車が活躍し、実はその中にもう一台、三菱の「初代デボネア:以下デボネア」も加わっていたというお話しをしました、が、そのときは軽く流してしまいました。

(番外23):懐かしの昭和の高級車【後編】
(番外23):懐かしの昭和の高級車【後編】
(番外22):懐かしの昭和の高級車【前編】
(番外22):懐かしの昭和の高級車【前編】

 さすがにそれでは三菱に失礼に当たると考え、今回はその「デボネア」と、東京オリンピック1964ではJOC(日本オリンピック委員会)からお声のかからなかったいすゞの「ベレル」を中心にご紹介したいと思います。

 両車とも、地味な存在でしたが三菱、いすゞの渾身の作品で、前述の3車に引けを取らないほど立派で個性的な高級車でした。

「初代デボネア(左)」と「ベレル(中央)」と 謎の高級車
「デボネア(左)」と「ベレル(中央)」と 謎の高級車

 なお本ブログは、私のつたない昔の記憶と、定期購読誌「国産名車コレクション」、「名車文化研究所」や自動車メーカーなどのサイト、を参考にして書いていることをご承知おきください。

2.「デボネア」

2-1)三菱初の高級車

 当時の三菱は、まだ三菱重工の自動車部門で、三菱自動車工業として独り立ちしたのは1970年になります(三菱自動車販売は1964年に設立されています)。

 戦後まもなく三菱は、トヨタ、プリンスを除く他の国内自動車メーカーと同様に、海外の自動車メーカーと技術提携しました。選んだ先は米国のカイザー社で、クロカン系四輪駆動車の代表格である「ジープ」のノックダウン生産から始めました。1960年に自社開発の「三菱 500」という、軽自動車より少し大きな小型乗用車を発売し、それから毎年のように「コルト」や「ミニカ」などの新型車を世に送り出しました。

 そして、1964年6月に満を持して三菱初となる高級車「デボネア」を発売し、三菱はいよいよ高級車市場にも参戦しました。考えてみれば、三菱系の企業の本体のみならず関係会社まで含めれば、「デボネア」は発売前から、すでに膨大な社用車の見込み客を確保していたのではないかと思います。

 (番外22)でお話しした「デボネア」にもお声がかかった東京オリンピック1964は、「デボネア」の発売4か月後に開催されているので、知名度を上げる絶好のチャンスになったのではないかと思います。

「初代デボネア」も加わった東京オリンピック1964のイメージ
「初代デボネア」も加わった
東京オリンピック1964のイメージ

2-2)見かけるのは黒塗りばかり

 「デボネア」は、前述の3車と同様に小型車枠内で造られていましたが、ボディの四隅まで角ばらせた、乗用車というよりはお偉いさんが後席であぐらをかくという、ショーファードリブン的なエクステリアデザインでした。

 ただよく見ると、例えばフェンダーのタイヤハウスの切込みが四角くデザインされていたり、ケバケバしくなりがちなメッキのモール類が、なかなか上質にあしらわれていたりして、とても完成度の高いものでした。どうやらこのデザインは、General Motors(以下GM)出身のデザイナーであるハンス・プレッツナー氏に依頼して出来上がったものだったようです。

「デボネア」の外観(黒塗りがとても似合います。:国産名車コレクション付録ミニカー)
「デボネア」の外観(黒塗りがとても似合います。:国産名車コレクション付録ミニカー)

 ただ、二兎を追う者は一兎をも得ず、ということわざの通り、せっかく小型車枠に収めたボディーサイズでありながら、自分で運転するというユーザー層を取り込むことはできず、街で見かける「デボネア」のほとんどは黒塗りで、白い手袋をした運転手さんが運転していました。 

2-3)そしてシーラカンスに

 その後「デボネア」は、基本デザインはそのままで、当初2.0リッターの直列6気筒OHVだったエンジンをSOHC化したり、2.6リッターに排気量アップしたりして、厳しい排ガス規制をくぐり抜けました。そしてなんと22年間もの間、三菱の高級車として君臨(?)し、1986年6月にようやく2代目にバトンを渡しました。

 晩年は走るシーラカンスなどと呼ばれたりしていましたが、エクステリアデザインの完成度が高かったおかげで、古臭さを感じさせない高級車らしい風格を、最後まで醸し出していました。

3.「ベレル」

3-1)いすゞは「ヒルマン ミンクス」

 いすゞの前身は東京自動車工業(途中でチ”ーゼル工業に改名)で、戦前、戦中とトラックとバス、そしてディーゼルエンジンを製造してきました。戦後となり1949年にいすゞ自動車に改名し、総合自動車メーカーとして名乗りを上げました。

 まずは、前述の三菱などの他の国内自動車メーカーと同様に、海外の自動車メーカーと技術提携しました。選んだ先は英国のルーツグループで、小型乗用車「ヒルマン ミンクス」のノックダウン生産から始めました。

 「初代ヒルマン ミンクス」はほとんど記憶にありませんが、1956年に登場した「2代目ヒルマン ミンクス」はミドルクラスの小型乗用車で、最近また流行っているツートンカラーで塗装され、なかなか気品があり洗練されたエクステリアデザインで、街中でよく見かけました。気のせいか、お医者さんがよく乗っていたような気がします。

 その「2代目ヒルマン ミンクス」の後継として、それまで技術提携して蓄積したノウハウを駆使して、いすずの力だけで開発されたのが「ベレル」となります。

3-2)すっぴんの「ベレル」

 「ベレル」は、1962年4月に発売されました。「2代目ヒルマン ミンクス」の後継といいながら、車格的には今までご紹介した高級車たちと同じクラスでした。

 この「ベレル」の発売直後の1962年9月に、「クラウン」と「グロリア」は2代目に生まれ変わり、すでにタテ目4灯の威風堂々としたエクステリアデザインで人気を博していた「初代セドリック」とともに、高級車市場を華やかに彩っていました。

 そんな中に飛び込んでいった「ベレル」のエクステリアデザインは、海外のカロッツェリアを頼ることなく自社内でデザインされた渾身の作品でした。

 ただ当時の日本人が好んだアメ車風の派手目なデザインではなく、恩師である英国のルーツグループをレスペクトしたような、少しおとなしめであまりメッキなどで加飾されていない、どちらかといえば欧州車寄りのデザインでした。

 そんな「ベレル」の外観は、前述の3車に対して明らかに見劣りするものでした。その後、ふんだんに加飾を施して煌びやかにしたり、2灯式だったヘッドライトを高級車の定番である4灯式、しかも「初代セドリック」のようなタテ目4灯に変更するなど、高級車らしい装いに近づいていきましたが、前述の3車と肩を並べることはありませんでした。

「ベレル」の外観(国産名車コレクション付録ミニカー)
「ベレル」の外観(国産名車コレクション付録ミニカー)

3-3)ディーゼルの「ベレル」

 「ベレル」に搭載されたエンジンはいすゞらしく、1.5リッターと2.0リッターのガソリンエンジンに加え、2.0リッターのディーゼルエンジンがラインナップされていました。当時は、同じくディーゼルエンジンを搭載した欧州系の高級車をも凌駕する性能を有していると評価されていたようです。

 ただ一度だけ、親父のクルマの車検のときの代車だった「ベレル」のディーゼルに乗ったことがありますが、いままでディーゼルエンジンの乗用車に乗ったことのない私にとっては、その振動と騒音は耐えがたきものだったと記憶しています(そのときの「ベレル」はもう古かったので調子が悪かったのかもしれません)。

3-4)魅力的なカーラインナップ

 「ベレル」が発売された翌年の1963年11月に、いすゞから大衆車クラスの「ベレット」が発売されました。この「ベレット」という名前は、「ベレル」の小型版という意味だそうです。

ケンメリが私の元に(その2)
ケンメリが私の元に(その2)

 その後「ベレル」は、1967年5月まで生産され、1967年11月に発売された「フローリアン」にバトンを渡しました。そしてその「フローリアン」をベースに、1968年12月に「117クーペ」が発売されました。この「フローリアン」と「117クーペ」は、以前のブログの中でも少しご紹介しています。

 1970年前後は、新旧合わせてこの4台のいすゞの乗用車が、街中を走り回っていました。「117クーペ」は別格としても、どのクルマも個性的でいすゞらしいクルマばかりでした。その後いすゞは、「ジェミニ」、「ピアッツア」、「アスカ」などの魅力的なクルマたちを世に送り出し、2002年9月末をもって国内乗用車市場から撤退しました。さみしい限りです。

当時のいすゞのクルマたち
当時のいすゞのクルマたち

4.実はマツダにも高級車が(おまけ)

4-1)私の知らないクルマ

 少し時代は進み、私が学生時代の話になります。その頃は、東京モーターショーでなけなしのお金をはたいて買ったガイドブックを、毎日毎日穴が開くほど眺めていました。するとマツダのページに、今まで見たことがないクルマが掲載されていました。

 そのクルマこそ冒頭の写真の「デボネア」、「ベレル」と並んで写っていた謎の高級車「ロードぺーサー」でした。当時の若者は今とは違いほとんどクルマ好きでしたが、そんなクルマ好きの中でも私は、親父の影響で小さい頃からクルマに接しており、国産乗用車はすべて網羅していると自負していました。

 そしてこの「ロードぺーサー」は、私の自信をみごとに打ち砕きました。

4-2)とにかくでかいクルマ

 「ロードぺーサー」は、今までご紹介してきた高級車たちより少し遅い、1975年4月に誕生しました。 

 当時のマツダには、量販車種とは違い販売台数の限られる高級車を、一から造り上げるだけの余力はありませんでした。そこでマツダは、なんとGMのオーストラリアの子会社となるホールデンの「プレミア」の内外装、足回り部品を購入し(当時の交渉役はGMと提携していたいすゞだったそうです)、そこに「ルーチェ」に搭載されていた13B型ロータリーエンジンを組み合わせて「ロードペーサー」を完成させました。

 一応オーストラリアのクルマなので右ハンドルで、がたいも今までご紹介した高級車たちよりはるかに大きく、「センチュリー」や「プレジデント」並みでした。

 もともとベースとなった「プレミア」はオーストラリアでは大衆車クラスで、いくら頑張って豪華に仕立て上げても限界があり、またマツダの誇る13B型ロータリーエンジンをもってしても、1.5トンを超える巨体を引っ張るだけの力はありませんでした。

 そして発売からわずか2年で、800台ほど販売して静かに身を引いていきました。その成就できなかった志は、「3代目ルーチェ」の高級グレード「ルーチェ レガート」に引き継がれました。最初からそうしておけばよかったのに、と思いました。ちなみに「ルーチェ レガート」はタテ目4灯でした。

「ロードペーサー」の外観(国産名車コレクション付録ミニカー)
「ロードペーサー」の外観(国産名車コレクション付録ミニカー)

5.各車の主要諸元

 「デボネア」、「ベレル」、「ロードぺーサー」の主要諸元を下表に示します。この中でやはり「ロードペーサー」のボディサイズは際立っており、「デボネア」も「ベレル」もその中にすっぽりと納まることができそうな大きさでした。

「デボネア」「ベレル」「ロードぺーサー」の所要諸元

6.おわりに

 以上が、「デボネア」、「ベレル」、そして謎の高級車「ロードぺーサー」のご紹介になります。今回はご紹介していませんが、その後1985年にホンダからも高級車「レジェンド」が発売され、一部を除きほとんどの国内自動車メーカーは、ライナップの頂点に高級車を持っていました。

 そして現在では、三菱、いすゞ、マツダはもとより、日産、ホンダからも高級車(セダン)は消え、残るはトヨタ(レクサス含む)のみとなりました。頑張れトヨタ!

<我が愛車ケンメリ関連のブログのメニュー入口>

 我が愛車ケンメリとの様々なエピソードや、私の記憶の中にしっかりと刻まれている数々の往年の名車たちをご紹介していますので、ぜひご覧になってください。

我が愛車ケンメリ関連のブログのメニュー入口
我が愛車ケンメリ関連のブログのメニュー入口