我が青春を彩ったクルマたち:番外3(初代 サニーとカローラ編【前編】:まだダットサンでした。)
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1.はじめに
本編(その5)(その6)の「2代目カローラのクーペ」のご紹介の中で、その先代の「初代カローラ」が、一足先に発売した日産の「初代サニー」と激しく鎬を削っていたというお話をしました。
両車が発売したのは私が小学校の頃で、両車とも発売すると同時にものすごい勢いで繁殖し、あっというまに街を埋め尽くしました。
それまでも他社から同じクラスのクルマは販売されていましたが、この両車の登場はエポックメーキングで、いわゆる大衆車の時代の幕開けといっても過言ではなかったと思います(子供のくせにそう感じました)。
ということで今回から【前編】【後編】の2回に渡り、「初代サニー:B10」と「初代カローラ:E10」をご紹介したいと思います。今回【前編】では、一足先に発売された「初代サニー」を中心にお話ししたいと思います。
なお本ブログは、私の少年時代のつたない記憶と、定期購読誌「国産名車コレクション」、「名車文化研究所」や自動車メーカーなどのサイト、を参考にして書いていることをご承知おきください。
2.BC戦争の余波で
以前、親父の車遍歴(その3:コロナ編)の中でお話ししましたが、1960年代に入るとBC戦争が激化し(Bは日産「ブルーバード」、Cはトヨタ「コロナ」)、当初は1000㏄クラスから始まった両車ですが、高度成長期の真っただ中の上昇志向のユーザーニーズに応えるために、モデルチェンジ毎にそのボディサイズと排気量が大きくなっていきました。
トヨタは、1955年に通商産業省(現在の経済産業省)が計画(公式な発表か否かは微妙だったようです)した「国民車構想」に対応すべく、700㏄のベーシックカー「初代パブリカ」を既に発売していたので、その上のクラスの「コロナ」が大きくなっていっても、エントリーユーザー向けのクルマは、一応(?)ラインアップできていました。
ただ日産は「ブルーバード」が大きくなると、その下をカバーするクルマが無いということで、「初代サニー」が計画されたようです。一方でトヨタもいくら「初代パブリカ」があるとはいえ、ますます目が肥えていくエントリーユーザーを、とにかく安く開発した「初代パブリカ」ではカバーしきれないということで、「初代サニー」と時を同じくして「初代カローラ」が計画されました。
ちなみに「初代パブリカ」には、フェンダーミラーが付いていませんでした。いくらなんでもはしょり過ぎのような気がしました。

(国産名車コレクション付録ミニカー)
3.車名は公募で
「初代サニー」は発売のわずか4ケ月前に、車名の一般公募を行いました。その懸賞はなんと「初代サニー」1台と賞金50万円で、それだけでも大きな話題になり、1ケ月間に800万件以上の応募があったようです。
日産はこの車名の一般公募以外にも、当時としてはめずらしい、クルマの車両概要を小出しにするティザーキャンペーンを実施したりして、発売前から結構な盛り上がりでした。この盛り上がりは、当時小学生だった私でもよく覚えています。
ちなみにこの車名の一般公募は、のちの日産の社長となる石原俊(たかし)氏のアイデアだったようです。偉くなる人のひらめきはさすがです。
そういえば、1982年10月に発売された日産「初代マーチ」の車名も一般公募でした。このときも結構盛り上がり、二匹目のドジョウはいたようでした。
そして周到なマーケティングの末に、1966年4月に「初代サニー」は発売され、5ケ月で3万台以上を販売するという予想以上の好調な出足となりました。
ただなかなか好調な出足だった「初代サニー」ですが、ふと気になることが思い浮かびました。
私も現役時代は、多少ものづくりに携わっていたので分かりますが、車名が決まったのが発売の2ケ月前、それからエンブレムなどの型を起こし試作して量産することが、本当に可能だったのか? カタログやチラシなどの宣材物の準備は、本当可能だったのか?
もう時効とはいえ、ちょっとだけ疑惑を感じてしまいました。

4.徹底的な軽量化
「初代サニー」のエクステリアデザインは直線基調で、とてもクリーンで洗練されたデザインでした。発売当初は2ドアセダンのみの設定で、どことなく欧州、特に英国の高級コンパクトカーのような雰囲気を漂わせていました。

このクリーンで洗練されたエクステリアデザイン以上に特筆すべきは、徹底した軽量化で、その軽量化はボディだけではなくエンジンにも及び、その後名器としてレースなどでも大活躍する直列4気筒OHV(A型)エンジンは、なんとアルミではなく鉄で100㎏を大きく下回る重量を実現しています。さすが技術の日産。
この軽量ボディと素姓のいい(A型)エンジンの組み合わせは、わずか排気量1000㏄でありながら、最高速度は135Km/h、0→400m加速も20秒を切るという、なかなか優れた動力性能をもたらしました。
5.ハンドル中央の ”D”バッチ
「初代サニー」の運転席回りは、発売当初はオーソドックスな横長のスピードメーターと3速コラムシフトのみでした。もちろん当時でもフロアシフトや丸形メーターは存在しましたが、ごく限られたスポーツカーのみに採用されていました。
そして大径極細のハンドルの中央には、日産の ”N” や、サニーの ”S” ではなく、ダットサンの ”D” のバッチが付いていました。当時のチラシにも「ダットサン サニー 1000」と書かれており、国内でもまだダットサンブランドが使われていたようです。
ちなみにダットサンブランドは海外、特に英語読みでダッツンとして北米での知名度が高かったのですが、前述の石原俊氏が社長だった1981年に、グローバルでブランドを日産に統一することになり、50年(DATとかダットソンになるともっと遡ります)の歴史を持つダットサンブランドは、悔やまれながら姿を消すことになりました。
ダットサンブランドは、その後2012年に、新興国向けのブランド(昔を知る私としては少し微妙でした)として復活しました。そして2023年に再び姿を消しました。無理があったようでした。

6.フロアシフトとクーペを追加
前述の通り「初代サニー」は、発売当初は3速コラムシフトのみでしたが、【後編】でお話しする「初代カローラ」が発売最初から4速フロアシフト一本で、それがなかなか新鮮で市場で受け入れられていたということで、発売から1年後の4ドアの追加のタイミングで4速フロアシフトが追加されました。
そしてそのさらに1年後に、ファストバックスタイルのクーペモデルが追加されました。こちらもセダンのクリーンで洗練されたエクステリアデザインはそのままに、さらに流麗さが加わった、まるで貴婦人を思わせるような(ちょっと言い過ぎかもしれません)デザインでした。

7.おわりに
以上が、一足先に発売した「初代サニー」ご紹介になります。「初代サニー」はクリーンで洗練されたエクステリアデザインと、徹底した軽量化で 、”THE大衆車" として見事に仕上げられた、完成度の高いクルマでした。
次回【後編】では、プラス100㏄の余裕を引っさげて登場した「初代カローラ」と、両車の勝負のゆくえなどをお話ししたいと思います。コンパクトカーのセオリーに則り実直に造られた「初代サニー」と、時流(?)に乗って、当時のユーザーニーズをしっかりととらえた「初代カローラ」の勝負のゆくえは如何に?
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