親父の車遍歴:その1(キャロル編:ここから親父の車遍歴が始まる。)
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1.はじめに
以前ブログで、我が愛車ケンメリはもともと親父の車で、あることがきっかけで譲り受けたというお話をしました。親父はもうずいぶん前に亡くなりましたが、仕事の関係で若い頃から運転免許を持っていました。ちょうどマイカーブームが始まろうとしていた時代だったので、運転免許を持っていた親父は、おふくろに無理をいって(無断で?)、近所ではいち早くマイカーを購入しました。
それから亡くなる直前まで約40年間に渡り、私の知る限り我が愛車ケンメリも含め13台の車の乗り継ぎました。親父は平均的なサラリーマンで、私の実家(以下わが家)はけっして裕福ではありませんでしたが、車だけは(それ以外も?)譲ることなくひたすら我を通したようです。
親父の車遍歴は、軽自動車(以下軽)の「マツダ キャロル(以下キャロル)」から始まり、「日産 セドリック グランツーリスモ」で幕を閉じました。まるで昭和の高度成長の過程を、車でたどったような人生だったと思います。
今回から数回に渡り、その親父の車遍歴をご紹介していきます。今となっては旧車として扱われていますが、当時現役バリバリだったころの車と、その時代の思い出などをお話しできたらと思います。
今回はその1(キャロル編)として、親父の最初に買った「キャロル」や、その頃近所にあった「マツダ R360クーペ(以下クーペ)」をご紹介します。時代は、私が幼稚園(正確には保育園)に通っていた、昭和40年より少し前になります。
なお本ブログは、私の子供のころの記憶と、定期購読誌「国産名車コレクション」、「名車文化研究所」や自動車メーカーなどのサイト、を参考にして書いていることをご承知おきください。
2.その頃の車・道路事情
2-1)路上駐車が当り前
わが家の前の道は、当時から片側2車線分を取ることができ、歩道も付いているそこそこ広い道路でした。長々と続いた舗装工事がようやく終わり、いよいよモータリゼーションの幕開けといったころでした。
そんな中で、親父が近所でいち早くマイカー「キャロル」を購入しました。まだほとんどの道路(歩道も含めて)は駐車禁止ではなく、「キャロル」の駐車場は家の前の歩道でした。「キャロル」は、そこにいつもボディーカバーをかけられて、まるで自分の家の駐車場のように止められてました。
2-2)休日は大洗車大会
休日になると、まず洗車するのが親父のルーティーンでした。おそらく洗車しているときに、通りすがりの人たちがじろじろ見ていくことに(まだ車がめずらしい時代でした)、優越感を感じていたのかなと思います。
しばらくすると、近所に「キャロル」の先輩にあたる「クーペ」が登場しました。もちろん「キャロル」と同様に路上駐車で、しかも細街路での路上駐車でした。
この「クーペ」はわが家から見える場所にいつも止まっており、休日になると互いに意識しあいながら大洗車大会が始まり、ピカピカになった車の前で車談義(互いの自慢話)にいつまでもいつまでも花を咲かせていました。
3.「キャロル」と「クーペ」
3-1)「キャロル」について
3-1-1)最初は安いモデルを
「キャロル」は、1962年2月に発売されました。最初にわが家に来た「キャロル」は、中古の2ドアでした。デラックス仕様は、下記写真のようなボディの色とルーフの色が異なるツートンカラーでしたが、親父の「キャロル」は単色(多分薄い緑色)だったので、廉価なスタンダードモデルだったのだと思います。さすがの親父も、最初は少しでも安いモデルを探してきたのだと思います。
この頃は、映画「三丁目の夕日」に登場する「鈴木オート」のような町の小さな整備工場が多くあり、車はそちらから購入し、その後の面倒も相当近い距離でみてもらうというのが一般的でした。親父も「キャロル」は、近所の目と鼻の先にある整備工場から購入し、事あるごとに通い詰めていたことを覚えています。
当時の車はよく壊れ、世の中の車に対する基礎知識も低かったので、このような整備工場との密な関係は必然だったのだと思います。
3-1-2)4ドアにアップグレード
その後「キャロル」は4ドアモデルを追加し、エンジンのパワーアップや、装備の充実を図りました。それを聞きつけた親父は、昭和の上昇志向の血が騒ぎだし、今の「キャロル」の不満点や、新しい「キャロル」のいいところをおふくろに刷り込み始めました。
そして最後は半分強引に、4ドアのデラックス仕様のキャロルを手にしました。まだ小さかった私でも、あきらかに少し豪華になったということが分かりました。
3-1-3)軽なのに4気筒エンジン
当時の軽は空冷の2気筒エンジンが主流だったのに対し、「キャロル」は水冷4気筒エンジンを搭載していました。幼い私でも、なんとなく他の軽、特に臭い煙を吐きながら騒がしく走っている2ストロークエンジンの車に比べて、ずいぶん静かな車だなと感じていました。
3-1-4)クリフカットのCピラー
「キャロル」はクリフカットというCピラーの形状で、リアガラスを垂直に立てることで後席のヘッドクリアランスを確保していました。当時の車は軽も含めて乗用車は3BOXのセダンが主流で、1BOX、2BOXは商用車というイメージが根強く残っていました。
ちなみに今では高級外車以外は、ほどんどの車が1BOX、2BOX(SUV含む)に様変わりしましたが、セダンは意外と長生きして1990年代まで主役の座を守り続けました。
今の軽のように、どの車も食パンのような四角い形ばかりで、エンブレムを見ないと車名が分からないのではなく、当時の軽は「キャロル」を始め、どの車も本当に個性的で、見ているだけで楽しくなりました。
3-2)「クーペ」について
あとから大洗車大会に参加してきた「クーペ」も、本当に個性的な車でした。「キャロル」より2年早く生まれており、当時の子供が思い描く宇宙船のような形をしていました。
「クーペ」は、このサイズと形で、なんと4人乗りとなっていました。オーナーの近所のおじさんに一度だけ後席に乗せてもらいましたが、いくら子供の小さい身体でも、前席から乗り込むのが相当きつかったことを覚えています。ただ後席に収まってしまえば、子供であれば我慢できるスペースはありました。
「クーペ」は市場で先行する「スバル360」の対抗馬として投入されたモデルで、40万円を越える「スバル360」に対し、30万円という破格で販売されていました。コストダウンの最大の目玉は、先ほどお話しした後席を子供用と割り切ったことだったそうです。
3-3)「キャロル」と「クーペ」の主要諸元
「キャロル」と「クーペ」の主要諸元を下表に示します。専門的なスペックは、あえてはしょってあることをご承知おきください。
現在の軽自動車の規格は、「全長3.4m以下、全幅1.48m以下、全高2.0m以下、排気量660㏄以下」となっていますが、当時は特に全幅が180mmほど狭かったことが分かります。商用目的のことを考慮し、全高は当時でも2.0mまで大丈夫だったようですが、乗用車はデザインバランスを考えて、このサイズに収まっていたのだと思います。
4.おわりに
以上が親父が初めて買った車、「キャロル」のご紹介になります。いよいよこれから親父の車遍歴が始まります。次回は「日野コンテッサ」を予定しています。
当時は、日野やいすゞなどの現在ではトラック専門メーカーになっているメーカーも、いろいろな個性的な乗用車を作っていました。
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